「ヘーゲル美学における芸術の終焉と新生」小田部胤久『ヘーゲルを学ぶ人のために』加藤尚武編

1835年、ヘーゲルの弟子のホートーによって公刊された『美学講義』
その中の
 
「芸術は、その最高の指名に関していえば、我々にとって過去のものであり、またそうあり続ける」=「芸術終焉論」
 
(*ただし「終焉」という言葉は出てこないし、芸術の製作が終わったということも意味しない)
 →アヴァンギャルド運動、アヴァンギャルド運動の失速に関連して、ヘーゲルのこの言葉が再注目されていた。しかし、現在形で語られているように、それが予言として言われたものではない。
 
Q:では、ヘーゲルの言葉は何を意味しているのか?ヘーゲルの芸術終焉論とはどんなもんで、そこで終焉を宣告されている芸術とはどんな種類の芸術なのか?これを明らかにするのがテーマ
 
 
<1ヘーゲル美学の歴史的前提>
Qそもそも「芸術」はいつから始まったのか?
 →「芸術」という言葉は18C中葉に生まれた
ラスコーの洞窟壁画やギリシア彫刻をまとめて「芸術」とは作られた当時思われなかった。
壁画は呪術的なものだったし、
彫刻は礼拝の対象だった(=宗教と芸術は一致していた)
 
18Cは合理主義の時代であり、感性は理性と比べて軽んじられていた。もっと言えば、感性は反知性的なものとして人間を誤りへと導くものとして考えられていた。
だが、感性を、「理性らしきもの」「理性に類比的なもの」、「下位認識能力」として捉えられるようになった。
 
(例えば)寓話は、感性(具体)を通じて理性(抽象)を語るもの。この点で「理性らしきもの」と言える。
 
でも、このままじゃ、結局、理性>感性 という図式は克服できない。あくまでも理性に追随する、理性を補完する感性という図式になってしまう。
 
●カントの成果
感性を理性に従属的なものとして捉えるのではなくて、感性自体に価値を付与した。
 
その出発点『判断力批判
 
自然界(現象界) 叡知界(物自体)
知的直観(=時空認識とその認識のカテゴリーの当てはめ)ができる 知的直観ができない
客観的 主観的
規定的判断力 反省的判断力
概念的判断 美的判断=悟性と構想力との合目的性に即した判断、悟性と構想力の自由な誘導を可能にするのにふさわしい対象こそ「美しい」と呼ばれる
でも、心で思ったこと(自由)は外(自然)で実現されなければならない。そこでカント考え付いたのが「自然の合目的性」
 
*自然の合目的性:例えばバラの花は人間に綺麗に見えるために綺麗な花を咲かせているわけじゃない。でも、あたかも綺麗になるかのように、バラは咲いている。本当は綺麗になることが目的じゃないのに、あたかも、綺麗になることが目的かのように咲いてる。この、目的を持ってるわけじゃないけど、なんとな〜く目的を持ってるように見えるのが「自然の合目的性」
 
→自然それ自体は人間の「自由な意志」に依存しない、つまりバラに「美しくなれ!」と思っても、何の効果もない。=心で思ったことが物に影響することはない
この合目的的かどうかを判定する能力を「反省的判断力」といった。つまり、バラを悟性と構想力の合目的性に即して判断するのが美的判断であるが、この美的判断の種類は「反省的判断」=主観的判断である
 
カントはバウムガルテンが始めた美学の領域を反省的判断力がかからる「自然の合目的性」のうちに定位した。
言い換えれば、美てのは、自然と自由が交差しているところに捉えられる。(=自然の合目的的なところに美がある)
 
→この考えはシラーにも受け継がれた、『美的教育についての書簡』で、美こそ自然と自由の調和・統一であり、美こそが(新善美の?)最高位だ!(⇄カント「美なんて善に至る前段階だよ」)
シラーはカントの形式主義を受け継いで、(形式・内容、理性・感性)シラー的に言えば「素材衝動」「形式衝動」の相互作用に美は見出されると主張。←結局はカントを乗り越えることができなかった…
 
→一方、ヘルダーリンシェリングは違う。どこが違うかというと、叡智界をカントは「知的直観できない」といったが、我々は「知的直観」をしているのではなく、「美的直観している」と彼らは考えた。しかもこの美的直観てのは主観的なもんじゃないともいう。これは現象界の知的直観に基づいているらしい。
 
シェリング「美的直観」について
シェリングがたどり着いた結論:「美的直観は知的直観の客観化されたもの」→(ここから導きだされるのは)「芸術は哲学の唯一真にして永遠の機関であり同時に証書である」ということ
 
じゃあその美的直観って何やねん?てところから。。
そもそも、シェリングの哲学の原理は、「自我における同一性」すなはち「知的直観」である
 
自由 自然
意識的なもの 没意識的なもの
主観 客観
要は、自我では主観も客観も、自由も意識も、意識も無意識も、一緒になってるってこと。この三つが自我で一緒になってる状態を知的直観と言った。
↓でも、
一緒になってるってことは、知的直観を客観化することはできない。
↓そうはいっても
客観化しないと、単にうわごとゆうてるだけになるし、学問としては意味ないね。
↓そこで
知的直観を客観化するにはどうすればいいか?をシェリングさんは考えることになった
 
シェリングさんはいろいろ悩んだ挙句、「芸術でも知的直観が客観化されている」と考えた
というのも、芸術ってのは、画家の
技術(意識的・主観的なもの、自由、)
天分(天賦の際)(没意識的・客観的なもの、自然)が一致してる!
→よって芸術作品は、哲学ができない知的直観を客観化したものと考えられる
 
芸術作品は抽象的な哲学が具体化したもの(道具であり、結晶化したもの)であるということ
→だから、ええ作品ていうのは哲学的な思考が促されたり、逆に哲学的思考が具体的な形を持ったものとして捉えることができるんだね→こういう考え方はハイデガーとかアドルノに受け継がれた
 
しかし!!!!
思考をそのまま絵に固定化することはできるのか??=思考をそのまま絵として表現できるのか??
→答えは、否。だって、もし絵が何か一つの思想を表しているとすると、そこに多様な解釈なんてないでしょ?→ある絵が色々な解釈をされるということは、思考が結晶化・固定化・具体化されたものでないということだ。
つまり、絵は極めて感性的=「感性的充満」であるがゆえに、概念的「抽象言語を使って・哲学的に」に把握しきれないという特徴がある
これに気づいたのがヘーゲル
 
 
 
芸術 哲学
方法 感性的に提示 概念的に提示
目的
絶対精神の表現=神の表現
精神の最も包括的な真理の意識化
絶対精神の表現=神の表現
精神の最も包括的な真理の意識化
 
 
 
ヘーゲル美学の歴史観
要点
①古典的芸術は美の頂点に位置する
②なぜなら古典的芸術は宗教・絶対者と、内容・形態の点で一致しているからだ。
③しかしロマン的芸術は古典的芸術よりも「高次」である。
④これはロマン的芸術は芸術家の想像力によって内容・形態が規定されていることによる。
⑤この内容と形態の分離は、ギリシアキリスト教の絶対者に対する考え方の相違によって引き起こされた
⑥要は、ギリシアでは感性的表現で絶対者は表せると考えたのに対し、キリスト教では感性的表現によっては無理だと考えられた
⑦これによって、ロマン的芸術は感性的表現を超えるものとして考えられる。ゆえに古典的芸術より高次な芸術に分類される。
⑧ここから「芸術の終焉が導かれる」
⑨というのも、もはやロマン的芸術においては、絶対者を意識させないような芸術作品が作られるから=要は、絶対者の表現の芸術は終わったということで、ヘーゲルにとって芸術とは絶対者の把握であったのだから、ロマン的芸術はヘーゲルにとっての「芸術」ではないということ。
 
ヘーゲル シェリング
芸術は絶対者を把握するためのもの
芸術は絶対者を把握するためのもの
絶対者は概念的・哲学的にに把握されるべきだ
なぜなら、絵は極めて感性的=「感性的充満」であるがゆえに、概念的「抽象言語を使って・哲学的に」に把握しきれないという特徴があるから
=媒体の差異=理性的(抽象的言語)・感性的(具体的作品)
絶対者は感性的媒体を通じて把握される(=古典的芸術については妥当)
ロマン的芸術においては、芸術と哲学(=絶対者の概念)は分離
芸術は哲学の機関にして証書=芸術と絶対者の概念は表裏一体の関係=古典的芸術
●ロマン的芸術の崩壊→絶対者(無限なるもの)の表現を忘れ、日常を描くことになってる。
原因:世俗化・宗教のパワーがなくなってくる?
結果:芸術家たちは、ロマン的芸術の使命を忘れている…絶対者を隠喩的に表現すること
ex)オランダの静物画・風俗画
 
そもそも、ロマン的芸術ってのは、「感性で表せないもの」を表現するために、なんとかしてそれを表現すべく、「間接的な・隠喩的な表現」を用いてきた。でも、世界が世俗化(=宗教のパワーがなくなってくる)するに連れて、芸術家は「感性で表せないもの(=無限なるもの)を表現しよう!」というロマン的芸術の特質を忘れ、身の回りの「有限なもの」を描写しようとする。その例がオランダの静物画とか風俗画。だからこんなものには、「無限なるものの」要素がないし、言い換えれば、何も暗示しないし、意味はない、何の深い概念も含まれてない。だからこそ、このような芸術家が「周りにあるものを(偶然的に配置されてるもの)」を描写しただけの作品に、シェリングの主張が通用するわけがない。要は、意味のない芸術作品が「哲学の機関であり証書」となるあはずがない!「内容を持たない芸術は、哲学的思考の結晶とはなりえない」by小田部
 
パラドキシカルだけど、ヘーゲルによればこの事態こそ、芸術の新生なのである。
 
何でかというと、ロマン的芸術の崩壊した時代においては、芸術に「形態と内容の一致」や「絶対者の表現」を課されることがないからだ。これがどういうことを意味するかというと、芸術家は自分の創作意思に従って、好きに芸術を創造できる。「聖なるものを表現しなくても良くて、人間的なもの、世俗的なもの、喜び悲しみ、悩みなど、普遍的な人間性」を自由に表現することができるから!そしてそれを「新たな聖域」としている。
 
「人間的諸目的に叶うようになる!!」
 
 
 
 
「ロマン的芸術の崩壊」→「芸術家の自由の獲得」「スタイル的命法の脱却」という点でダントーと共通している。これこそが、ダントーヘーゲルを評価したポイントなんちゃうか???
 
Hegel
Danto
宗教(形態・内容を規定するもの)からの脱却→(宗教に縛られない)芸術のための芸術の登場 スタイル的命法(形態を規定するもの)からの脱却→(スタイルに縛られない)多様な芸術の登場
 
 
<参考>
 
<yahoo知恵袋より>
まあ[現象界]てのは、簡単に言えば 
我々人間が[理解出来る]又は[認識出来る]という《範囲》の事だな
カントの言う《理性》てのは、非常におおざっぱに言うと
《時空認識と、その認識のカテゴリーの当て嵌め》にある
まあ要するに、人間が認識出来るのは、結局全てが《時空》な訳なんだよ
この時空認識を、人間は先天的能力に当て嵌めて、様々に構築し、対象をカテゴリー分けしていくんだな
ま、簡単に言えば
《空を飛ぶ渡り鳥の群れ》が、綺麗な三角形を形成して飛んでいる[現象]を見た際に
我々の能力は《三角形が空間を移動している》と、認識出来る力を保有しているのだが
この《三角形を三角形と認識出来る》また《それが時間と共に、空間を移動している》と認識する事そのものが
まさに悟性、つまり《カテゴリーに当て嵌めている》という訳だ
つまり、我々人間は、世の中を理解する事が可能な《認識能力の範囲内》が、その時空認識と悟性による構築の範囲内であるとしたんだな
だから当然、我々は《想像》や《経験や知識》も、その能力基盤上にしか成り立たないのも、またしかりな訳だ
ま、つまり《英知界》てのは、その認識能力が《働きかけられない範囲》を指す事になる
例えば《人格》とか《信仰》とかなんかは分かり易いと言える
[あの人は人格者だ]
[彼の信仰心は素晴らしい]
まあ、良く聞く台詞だが、解るとは思うが、これらはもはや
《目にも見えない》し《音もしない》し、どうした所で《表現が出来ない》という訳だ
つまり時空認識やカテゴリーの範囲内に現れないという性格を持っている
だが間違いなく《人格》や《信仰》という事実は、そこに《在る》訳で、これは疑いようがないんだな
こういった、経験や理論を越えた物を、少なからず人間は保有出来る部分がある
《認識出来ない》のにも関わらず《在る》
これをカントは《人間は現象界に属しながらも、英知界に棲む》とした
その英知界が、いかに構築され、理論的に理解する事などは、人間には不可能であるんだな
何故なら、我々は《認識した事は、全て現象界》になってしまうからな訳だな
ま、こんな感じだな