『物語の哲学』野家啓一①

●歴史の終焉とは
「歴史の終焉」が喧伝されるになったきっかけ
 →アレクサンドル・フクヤマの論文「歴史は終わったのか」
  そのテーゼ:「人類のイデオロギー的な進展は終局に達したのであり、欧米の自由な民主主義が人類の統治形態としては究極のものであることを示している」
 
論拠:ヘーゲル哲学、特にヘーゲル哲学を研究していたコジェーヴの哲学(=ヘーゲル解釈)
 援用箇所:『ヘーゲル読解入門』7章の注
 
筆者の主張:コジェーヴフクヤマの主張の意味のあるところは、起源から目的・完成へと向かう進歩的な西洋型の歴史の終焉を説いている箇所=「歴史の目的論」の衰亡
 
●では、歴史の終焉後、歴史がなしうることって?(写真の登場後、画家がなしうることって?、ポップの登場後、芸術家がすることって?)
 
この問いのヒントは同じくコジェーヴの論に隠されている。そして彼の主張はダントーの主張と重ね合わせて見ることができる。
 
 
まず実在する歴史が仕上げられなければならず、ついでこの歴史が人間に物語られねばならない。 加えて、歴史的想起なしには、すなわち語られたり書かれたり記憶なしでは実在的歴史はない
実在論的歴史哲学 分析的歴史哲学
マルクスヘーゲルただ、現象学においては、ポストモダン的なことをゆうてる?つまり、他者も自分と同じように自己認識を持っているということの認識の到来=自己認識の到来この点とダントーはポップの到来=非イデオロギー的多様性、非スタイル的命法の時代の到来を重ねて考えてるんじゃないか)
 
イデオロギー イデオロギー的=多様性
モダン ポストモダン
物語ることなしに、歴史を説明することはできない。そして、歴史は常に未来の出来事によってその意義が変化するものであるから、歴史は「絶えず生成と変化を続けていくリゾーム状の生き物なのである」
全てを語ることは何も意味しない。出来事は終着点から遡行的に見ることによって説明できる。神のような歴史家が、あらゆる全てのことを記録したとしてもそこには何もストーリー(コンテクスト)がない。
 
過去の出来事の意義が未来によって変化する、この点において未来と同様に過去も「開かれている」ということができるのであり、過去の出来事が固定的になることはない。ゆえに歴史は「未完結」であるということができる
 
では、歴史の終焉後、歴史がなしうることって?
    →「起源とテロス」が「不在」である歴史の終焉においては、非イデオロギー的に「歴史」を構想することができる。
 その寛容さを我々は享受している