「歴史的出来事の実在性をどう考えるか : A・C・ダン トーにおける歴史の物語り論の検討」大塚, 良貴 の内容

 
 
●議論の大枠
ダントー「物語ることってのは過去の出来事を振り返って、出来事と出来事の間に意味を見出すことだ」
↓(そこでは)
ダントー「物語が正しいかどうかってのは、実際に出来事があったかどうかに左右される」>(実在論的)
↓(その一方)
ダントー「物語を作っていく上で、実際にあったかどうかはわからんけど、あったとしたほうが、いろんな出来事が説明できることがあるし、その場合はあったことにした方がええ」(反実在論的、道具主義
↓(これを受けて)
筆者「過去の出来事が本当にあったから物語を作れるるのか、物語る上で必要だから過去の出来事を実在したことにするのか、ダントーはどっちの立場も取ってる。これは矛盾」
同様にウェーバーマン「(ダントーは)維持不可能な二元論に陥っている(何故ならば)ダントーは過去の実在性に依拠しつつ物語文を構築するが、物語文によって過去の実在性は変化するから」
↓(これを乗り越えるために野家の提案を紹介)
野家「歴史を物語るってのは、循環行為なんだ。過去の出来事がないと物語ることなんてできないし、物語ることによって過去の出来事を確認することだってある。これを存在論的先行性と認識論的先行性の循環構造って呼ぼう」
↓(でもこれでも解決できない問題がある)
筆者「そもそもなんで物語ることによって過去の実在性が変化したり、確認したりすることができるんだ?という問題だ」
筆者「それは俺らは、とりあえずなしうる限りの整合的な歴史を持ってて、このみんなが正しいと思っているとりあえずの大きな歴史に、新たな物語が矛盾なく組み込むことができたら、その物語の一部に新しい物語が入ったということになる。新しい物語が歴史の一部になるってことは、実在性が認められたってことになる。こういうわけで、物語るってことは、それが大きな物語と整合的ならば、過去の実在性を変化させたり、確認したりすることができる。
 
 
 
 
ダントー「歴史とは過去の出来事を回顧的に組織化する科学的説明の一種であり、これは通常物語るという言語行為によって行われる」←当時盛んだった論理実証主義とは一線を画す(ウィトゲンシュタインら)
 
 
<本論>
●歴史物語の成立要件
 ①:全ての出来事を既述することでなく、歴史的物語によって回顧的眼差しによって過去の出来事
   を組織化し、その意味連関を創る
 ②:物語ることは<what何が><howどのように>の二つをストーリーを提起することによって
         のべる説明すること
 
①全てを物語ることは何も意味しない:物語ることは強調・省略・排除すること
 例えばきのう何があった?と問われた時に、きのうの出来事を目覚めてからのことを何時何分何秒に何があったと説明することは普通しない。きのうあったことを特徴的に述べること。つまり問いの本質は「昨日特に何があった?」ということだ。
実際に我々が知っている歴史は全てがそう。例えば「ウエストファリア条約は神聖ローマ帝国を崩壊させた」=確かに神聖ローマ帝国は崩壊したが、それはウエストファリア条約がなした一つの帰結であって、ウエストファリア条約の全てではい。つまりここでも省略・強調・排除が行われている。
 
②物語る時には<what><how>が必ず並存する。例えば警官が車の事故の際に目撃者に「何が起こった?」と尋ねるとき、目撃者は「車の事故が起こった」とだけ答えることはしない。車の事故が起こったのは自明だからだ。そうではなく「トラックが信号無視して左折してきて、それにセダンがぶつかった」のような経緯の説明、つまり<how>どのように事故が起きたかが、質問の回答としては適切だろう。
 
what
how
事実の記述 事実の説明
両者が並存。
 
●では、どのように記述・説明は作られるのか?→物語文によって。
 
<物語文の作り方>
Step1:(時間的に差のある)関連する出来事の抽出
Step2:出来事と出来事の間を詳細に記述
Step3(完成):前件を説明している
 
 
具体例:
アリスタルコスの仕事は、コペルニクスの仕事に先鞭をつけた…①
(前件)         (後件)
 
*注意:この文が真になるためには、前件と後件の実際の結びつきが正しくなければならない
もしこれが嘘なら、フィクション文となる。…②
 
Qでは物語文の寄せ集めが、物語になるのか?→答えは否である。
単なる物語文の集積は、原因と結果の集積であり、ここから<物語>という「構造」の基準に即して、物語文の取捨選択を行わないといけない
 
●では、<物語>とはどういうものか?
物語には:始め・中間・終わり が存在する。
例えば、車の凹みを説明する時には、「車が凹んだ」という終わりのみでなく「車が凹んでいなかったということの説明」=はじめ と「凹んでいなかった車が凹んだ過程」=中間がなければならない。
「車が凹んだ」ということを説明するには、「凹んでいない車」が想定され、凹む過程:中間部
を埋めることが要求される。つまり①の文は前件と後件の連関が示されていないので、物語の基準からは外される。その中間部、つまり①の文はアリスタルコスの仕事は、コペルニクスの仕事に「どのような過程を経て」先鞭をつけるに「至ったのか」ということが示されなければ、<物語>となることはできない。
中間部=始まりと終わりの連結部=連関部
 
●物語が成立するためには、まずそもそも物語文の真正性の担保が必要である。つまり出来事がきちんと実在した!ということ=歴史的実在性と、前件と後件の生起の論理的なつながりの正しさ、つまり「車が凹む」という結果をもたらした、原因の正しさが必要となる。車が凹んだ原因として、「隣の国のある村で、1匹の蝶が羽ばたいた」ということは無関係である。
 
●出来事の一致は物語文の必要条件であり、十分条件でない
(何故ならば1)出来事間の関連を記述する文としては誤りのものがある。
(例えば)コペルニクスは地動説を唱えた。影山温士は先週日曜日ダンスをした。という文は、事実を述べている点では正しいが、一切の出来事の連関がない。よって物語文ではない。
(何故ならば2)そもそも物語文ではその出来事連関が何と対応しているのか(=どういうことを意味しているのか)が非常に曖昧である
 もっと言えば、物語ることによって何を意味しているのかがわかることがある。物語る以前には対応する意味(=その物語がどういうことを意味しているか)は認識されない。
 →よって物語文の真正性は出来事の実在性と一致だけでは、本当だと言えない。
 (=ある物語が正しいと判断するのに、出来事が本当にあったということだけでは不十分)
(→歴史的真理は根本的に合意の問題である=何を正しいとするかはこちら側の合意だという議論もある注7 byバウムガルトナー)
 
ダントー実在論的歴史哲学者でもあれば、反実在論的歴史哲学者でもある。どっちだ?
ダントー実在論的歴史哲学者みたいだ
(何故ならば)物語文の真正性を歴史的実在性に求めるから
だが、一方で反実在論的な主張もしている
 証拠1「科学用語を用いた文や観察の際に使用される文の主な役割は現在の経験を組織化するのを助けることに役割がある」
 証拠2「<ジュリアス・シーザー>のような語は「電子」や「エディプス・コンプレックス」がそれぞれ物理学や精神分析学の理論で果たすのと似たような役割を歴史研究において果たしている。」
 →ここからわかるのは、ダントーが<歴史の道具主義>的立場を取っていることである。
つまり言い換えると、ダントーは実際に観察され得ないものを土台に、歴史を構築するのを認めている。電子や素粒子ってのは、観察できないし、実際に存在するかどうかはわからないけど、電子や素粒子が「存在する」と思うことによって、論理的に説明できる事象がたくさんある。だから、電子や素粒子の存在を(見えないけど)想定する。ダントーは、カエサルがいたかいなかったかはわからないけど、カエサルが存在したとすることで、論理的に説明できることがたくさんある。だからカエサルは存在した!と主張できる。と考えた。「カエサルが存在した!」という言明が「様々な事象を説明するのに」非常に強力であるから、この「カエサルが存在した!」という言明を認め、真とするのである。電子や素粒子の存在の真偽をもはや問わないのと同じで、「カエサルが存在した!」という真偽も問わない立場(=道具主義)をダントーは取っているのだ。
 
Qダントー実在論的歴史哲学者でもあれば、反実在論的歴史哲学者でもある。どっちだ?
 →どちらでもある=ダントーの立場は矛盾を孕む(注8 ウェーバーマン「(ダントーは)維持不可能な二元論に陥っている(何故ならば)ダントーは過去の実在性に依拠しつつ物語文を構築するが、物語文によって過去の実在性は変化するから」)
 
結論)ダントーの「歴史的出来事の実在性」の扱いには問題がある(という認識にとどめておこう、という著者の意向)→歴史の物語行為と、過去の出来事の循環関係に留意をすべきである!
 
 
●物語ることと出来事の「循環」
存在論的先行性と認識論的先行性とにある循環構造」(野家啓一『歴史のナラトロジー』)
実在論的立場)
(過去の出来事)→(物語るという行為)=物語るということはここから
始まる、出来事がないと物語ることは無理、物語をスタートさせるには
出来事が存在しないと無理
反実在論的立場、道具主義
(物語るという行為)→(過去の出来事)=物語ることによって、
過去の実在性が担保される
「過去の実在性は物語行為を前提にし、物語行為は過去の実在性を前提にする」=循環構造
 
Qでもなんで、物語るという行為が過去の実在性を「付与」できるの?=物語る行為によって、どうしてほんまにあったということに「することができる?」
 →「とりあえずはこれで整合的で、正しいと考えられている歴史(=膨大な資料・証拠が批判的検討にさらされて整合的な説明のもと、物語として説明されている)」
   を我々は所有しているから
そして、その都度新たに提起される物語・物語文は、それまで蓄積されてきた物語(「歴史物語の束」)との整合性によって実在性が認められる。
つまり、<さしあたって真とされている歴史(新たに提起される物語)>という構造を取っている。要するに、歴史的物語の実在性は、さしあたって真とされる歴史物語内在的に容認される。
 
Q歴史を物語るというポイエーシス(=言語的制作)的行為から歴史的実在性へとどのように移行するのか
(=歴史を物語るという一人によって言語的制作行動はどのようにして「そうあった」という多くの人が認める事実(とされるもの)へと移行するのか?主観→客観の意向はどのようにして行われるか?)
→歴史的実在性は、先行する真とされる歴史に整合する限りにおいて容認される(一人が言い出した物語、みんなが認める物語と整合的で有る限り認められる)小さな物語は大きな物語に包摂されうる限り、成立する。
 
 
 
*論文の書き方に関して見習いたいところ
・分かりにくい引用をしたら「少々分かりにくい引用だが」と断り、その解説をあとで設ける
・問いを立てたらすぐに結論を示す「あらかじめ言っておけば〜だ」「この問いに対し筆者は〜と答えることにしよう」