『物語としての歴史:歴史の分析哲学』アーサー・ C・ダントー ①

 
p13ー一章の内容
 
実在論的歴史哲学と分析的歴史哲学の違いとは?
ダントーは両者をこのように区別している
実在論的歴史哲学 分析的歴史哲学
通常の歴史研究=過去の出来事に説明を与える
*+過去の以上を目指す
実在論的歴史哲学の仕事+歴史の実践からも生ずる概念的諸問題を主題とする
哲学とは無関係 哲学に他ならない
歴史全体に説明を与えようとしている…①
 
 
実在論的歴史哲学者の仕事について
 
 ①これは問題!だって、普通の歴史家は、過去に起きたことすべてについて完璧に記述しようとする。もしこのような完璧な歴史(=起こったことすべてについて完璧に記述された歴史)ができたとしても、これは歴史全体についての歴史ではなくて、過去全体についての歴史だから。
→というか、だいたいそんなことは無理!実際には歴史には多くの隙間(=わからないこと、不確かなこと、記述しきれないこと)がある。
 
でも、仮にもし、神のごとき歴史家が、過去に起きたことをすべて完璧に記述するとしよう、そうすると、その神のような歴史家によって作られる歴史は、「理想的な編年史」となる。
 
だがこの「完璧な」歴史っていうのは、実在論的歴史哲学者にとっての「資料」の範疇を超えるものではない。なぜかというと、彼らの目指すものは歴史「全体」の説明であって、全体においては、「過去」は一部分に過ぎないからだ。
 
実在論的歴史哲学者はこの資料を利用し、歴史全体に関わる理論を構築しようとする。この理論には二種類ある。それが↓
 
記述理論 パターンを見出す 説明理論 そのパターンの理由・なぜそのパターンが成り立つかを説明する(グリーンバーグのナラティブが強力であり「歴史哲学」に値するとダントーが考えるのは、は説明理論を用いているからに他ならない。(タブン)
過去全体を構成する出来事の中にパターンを見出し、このパターンを未来にも投影して、未来の出来事も過去の出来事に示されたパターンを繰り返すか、あるいは補完する
=要は、未来は過去のパターンの繰り返し、あるいはパターンの亜種、発展系、親戚である
記述理論を因果関係を用いて説明する。要は、原因と結果の関係から過去を分析してパターンを見出し、未来の出来事を同様に(原因と結果を用いて)説明する
 
記述理論てのは説明理論に支えられて初めて価値を持つ。そうじゃないと、一般的なことを説明の根拠に使うだけで、凡庸なものになっちゃう!→これは社会科学の一助となるだけ。
 
例えば;アジア人だから、氷河期だから、貨幣経済だから〜〜である。など(正直、例が思い浮かばないのであまりわかってない)
 
ダントーが「歴史哲学」という例:マルクス主義…”全ての歴史は階級闘争の歴史である”(歴史っていうのは過去も未来も、階級闘争というパターンによって説明できる)
 
”このパターンはその存続を支える因果要素が将来無効になるため、いつの日か終焉するとマルクスは予言した。”(モダニズムの理論と類似している。モダニズムは、芸術の派と派が芸術界の主流になろうとした闘争の歴史。マニフェストによって、「これこそが芸術である!」と声高々に宣言。たとえ全ての派にマニフェストが存在しなくてもそれは問題ではない。批評家たちが代わりにそのマニフェストを補っているから。
 
→(従って)「社会に階級がなくなれば階級闘争も終わるのだから、階級闘争が終わった時、彼のいう歴史も終わるのである」
マルクスは彼のいう「歴史」の終わった後について、「ユートピア的なものが訪れる」とほのめかした以外に言うことをためらった。
 
→歴史全体というのは、定義された歴史(=体系的解釈)が終わった後も含む、つまり、歴史の終焉後も「全体」の一部をなす。よって歴史全体は過去全体の「理想的な編年史」とだけでなく「歴史の終焉後」も包摂している。
 
●歴史家と実在論的歴史哲学者の違い
 
歴史家 実在論的歴史哲学者
・過去のみに関心を向ける
=過去に起きたことを収集することが仕事
・資料収集の企てに過ぎない
歴史家の仕事(=過去に起きたことのを資料の収集)を土台として過去の出来事を因果関係の視点からパターン化し、未来にそのパターンを適用する。このことによってあたかも未来を予言的(=未来をあたかも過去かのように)説明する。
要は、過去のデータをもとに理論を構築し、それを未来にも適用しようとする
歴史の詳細な説明のため、事例から事例を推測する。
その域をどんどん豊かにしていくイメージ(自己充足的)
事例→理論 一般化を行う
理論は時間の経過に耐えうる(と思われる)というか理論によって歴史を規定する?
絶対精神へと至る過程を理論(=前提)として歴史を語る。歴史を全ていい尽くすことはできないという前提で、歴史の一側面をある観点から語る。このことが歴史哲学者の仕事では???
物語構造をとる 物語構造をとる
一連の出来事に解釈を与える 一連の出来事に解釈を与える(科学と違うところ!!!)=あるものの意味を見出す!
過去を、大過去を頼りに描き出す 未来を過去から描き出す
しかし、歴史の中にも、歴史哲学のような、パターン化して、未知のものを判定することがあるという。この具体例として、は次のようなものがあげられている。
(歴史家が古文書や古美術を鑑定したり、出来事の年代を定めたり、あるいはさー・ウォルター・ローリーが本当に無神論者だったか決定したりすること。)
つまり歴史の中に「事実を整合的なパターンに組織しようとする傾向があり」、これは歴史哲学者の仕事と似ているということである。
 
 
 
Qじゃあ歴史家の仕事と歴史哲学者の仕事とはどこが違うのか?
 A→「後者が前者とは違って詳細な事実発見に基づいた上で、さらに説明を与えるという点ではなく、歴史哲学者の作り出す説明が、歴史の領域を超えて歴史自身が果たす機能以上のことを成し遂げようとすれば、それは全く別の説明にならざるを得ない」
パラフレーズすると)歴史家は歴史をより詳細なものにするために、証拠から推測へ、証拠から推測へ…という過程をたどり、より深い(幅広い、詳細な)説明を歴史に与えようとするのに対し、歴史哲学者は歴史というジャンルを乗り越えるような理論を編み出す。
 
 
その例:「ユーゴスラビアで三つの精巧なローマ式墓地が別々の場所で発見されたとして、仮に死者の道の端に埋葬するというローマの風習を知っていればこれらの墓はいずれも本街道にあったという推測ができる」=歴史にも、過去の証拠に基づく推測ができる=歴史考証(事例の説明に事例を用いる)
 
具体例)
りんごが木から落ちる→じゃあバナナも木から落ちるだろう(=事例を増やしていく、事例から事例を推測する)(歴史家)
                  ⇅
りんごは木から落ちる→全てのものには引力が存在する(=事例から理論を導く、そしてこの理論はジャンルを超えて応用可能であると同時に、普遍的と思われるものを抽出する→未来を語る、…「今の所、100年後も引力がなくなるとは思えない」)(歴史哲学者)
 
歴史哲学は、「歴史的事象やその進み行きを統合して一つの究極的意味へと向かわせる原則に乗っ取った、世界史の体系的解釈」byレーヴィット博士
 
 
●意味・解釈とはどういうこと?
 歴史哲学において意味があるってのは、「ある出来事を、大きな時間の流れから見たときに、その出来事が直接的に表す以上の意味を持っている」ということ。
小説の伏線も、最初はそれが何なのか、意味があるのか意味わからんけど、本を読み終わってから意味があったってわかる。
 
 →(過去・未来どちらも含む)歴史全体を自分で(勝手に)構想し、歴史哲学者は、過去に起こった出来事を未来に対してどのような意味を持つかを位置付けようとする。あたかも「予言」するかのように未来について語るのである。
 
予言 予測
・未来を歴史的に語ること
・既成事実としての未来に照らして現在を語ること
実在論的歴史哲学者は予言的に未来を語る=神学的・宗教的=大言壮語に思われがち
・未来を不確かなものとして、あくまでも「なりうる」という一つのを示すこと
 
●歴史における意味(意義)について
「ある出来事を、大きな時間の流れから見たときに、その出来事が直接的に表す以上の意味を持っている」
とほとんど同じだが、例えば、Aという著作がBに影響を与えたという事例を考える。
Aという著作は、それが書かれているとき、まさかBという著作が書かれていないのだから、Bという著作に影響を与えることは想定されない。
しかし、Bという著作が書かれた後、BはAから影響を受けているということが明らかにされる。
このときに初めて、AはBに影響を与えたという意義を持つ。
 
→歴史家は過去の出来事を振り返って、意義を「付与」する。
意義というものは、未来から振り返って、時間遡行的に見出されるもの
また、歴史における意義というものは、その歴史がどのような物語であるかによっても異なる。
言い換えると、その歴史が何に注目して織りなされるものかによって異なる
視点によって、出来事の意義は可変的である
 
*物語=ある視点によって選別された一連の出来事
 →物語は過去の出来事を取捨選択してできている。
  →つまりそこには出来事の取捨選択の基準がある
  (出来事はEは基準Sによって物語に組み込まれるが、出来事E’は同じ基準によって物語から排除    
        される)
 
実在論的歴史哲学者が犯してしまう間違い!
=意義というものは、未来から振り返って、時間遡行的に見出されるもの
にもかかわらず、かれら(実在論的歴史哲学者たち)は意義を付与する未来の出来事が起こる前に、出来事に意義を見出そうとする。
 →時間的遡行なしに、「意義らしいもの」を出来事に貼り付ける。
  =自分が見出したパターンで未来を説明しようとする?「未来に対して一種の要請を行う」…無理やり自分ルールで説明するって感じ
 
実在論的歴史哲学者に対する批判
歴史哲学者は、<歴史における意味><歴史の意味>を区別していない、混同している
という批判。それによれば、
歴史における意味 歴史(=自身の定義するコンテクスト・物語)の意味
コンテクストにおける意味
自分の定義する歴史における意味
自分の視点で選択した出来事のもつ意味
哲学者が決める歴史
その意味はもはや歴史的意義を持たない場合もある ex神の意志
 
<歴史における意味>
{ある物語A(ある出来事A)} …ある出来事Aはある物語Aによって意義(=意味)づけられる
{ある物語B(ある物語A)}…ある物語Aはある物語Bに位置付けられて意義づけられる
[ある物語C{ある物語B(ある物語A)}]…ある物語Bはある物語Cに位置付けられて意義づけられる
↓これを繰り返して、物語をどんどん広くしていく…
[理論上可能な最大の物語=歴史全体{物語(…)}]という入れ子構造になる。
→では<歴史の意味は何か?>
それは歴史哲学者によって様々である。ヘーゲルの場合、「歴史は絶対的なものの自己認識へ至る過程である」と考えた。(現象学)←この定義に即してヘーゲルは出来事を<歴史における意味>があるか、取捨選択した。(→
<歴史の意味>を問い始めると、もはやそれは非歴史的な議論になる。
(例えば、なんで神の意志なんだ?とか言い始めたら、神学的な議論になる。)
 
Qヘーゲルを批判しているのか?→言い換えれば、ヘーゲルは自分ルールで未来を語ったか?→美学においては語ってない。なぜなら終焉があるから。終焉があるってことはその時点で終わったということだから、そもそも過去のものとして芸術を語っている。未来についての言及=知性が要求されるだろう。とは言っているが。これについては詳細な情報を得なければならない。マルクスが言ったように、「ユートピアが来るだろう」的な感じでぼやかしたのか?「人間の諸目的に仕える」と言ってるから、。未来について述べてるんじゃねえか?←検討必要
Qヘーゲルは歴史哲学者なのか?→パターン・自分ルール・自分の定義する歴史・物語に即して出来事を取捨選択している点で歴史哲学者と言える。ただ、ヘーゲル自身は「歴史哲学者」と思っていたのか?なぜならヘーゲルは「歴史が問題とするのは、過去のことだから」と述べている。(注12)
 
 
 
●科学理論と歴史哲学
 
科学理論 歴史哲学
未来への申し立ては妥当
未来への申し立ては非妥当
 
出来事の組織化様式は、未来を立案することを容認しない
規約性のみによって成り立つ
=客観性のみが理論体系を構築している
歴史的意義と非歴史的意義のハイブリッド
(非歴史的意義は、人々の関心によって変容)
例えば、中世では神を信じる人が多かったのに対し、現代ではそれと比べたら、すげえ少ない。あるものに対する関心ってのは諸行無常。そして歴史的意義ってのはそういう諸行無常的なものによって影響されてたりする。ヘーゲルの絶対知とかもそうじゃね?
=「規約性(客観性)と恣意性(主観性)」
 
●「歴史哲学というのは語義矛盾である」
 
歴史 哲学
並列関係=時間関係 従属関係=非時間関係=論理関係
既述の通り「資料収集の企て」 限界の特定を哲学の本分とする
→まぁ細かいことは置いといて、直感的にそれらは違うものだと認識するやろ?
 
本書のテーマ:「歴史家にとってはいずれもが過去でありながら、その内部では互いに一方が過去となり、一方では未来となる」が、「歴史家にとって、なぜいずれもが過去でならねばならないのか、本当にそうなるべきか」を見極めるのが歴史の分析哲学である。
=分析的歴史哲学というのは、歴史哲学の内容とその妥当性の分析、限定化(過去のものを過去とする範囲を決める領域画定)である。