神林恒道・太田喬夫編(1994)『芸術における近代』(転換期のフィロソフィー)2,ミネルヴァ書房

●4節:ヘーゲル市民社会の芸術 p122〜
ゲートマン=ジーフェルトさん(=現代のヘーゲル美学論者の一人)によれば、ヘーゲルは美しくない芸術も、評価した。その理由は美しくない芸術の中にも「社会的機能」があるから。ヘーゲルは美しい芸術が素晴らしい!絶対的だ!という「古典主義」的な立場を取らなかったということ。
 
ヘーゲルはシラーの悲劇から、悲劇というジャンル自体の没落を見た。なぜなら、悲劇は美的でもなければ、ほとんど社会的機能も持たないからだ。ほとんどというのは、悲劇が指し示すものは、他のどんなメロドラマからも読み取ることができる。悲劇というのは、もはやメロドラマと同じくらいしか価値がない。これを<が近代悲劇の悲劇性(「最高に悲劇的な失敗」)>とヘーゲルはよんでいる。
 
なぜ悲劇は没落してしまったかというと、ヘーゲル「新しい世界を芸術的に表現するには、新しいジャンル、構造、形式が必要であり、古いものを取り戻すことはできない」と考えたからだ。要は、悲劇はもう今の社会を批判したりする機能を持つにはには古くなってしまったということだ。言い換えれば、悲劇の社会を批判したりするという構造の賞味期限がきたということだ。
 
だからヘーゲルは『現象学』では(シラーの悲劇ではなく、)ディドロの『ラモーの甥』をその当時(近代社会)に社会的機能を持つ文芸として考えた。
 
市民社会の芸術…オペラ!とヘーゲル(←これって、ダントーにとってのブリロ・ボックスだったんじゃないか?)…
 
ヘーゲルはオペラ狂いだった。←オペラを美しい芸術として正当化した。ただし、オペラが美的価値を持つというのはその社会的機能による。(だから、「古典主義的」な判断ではない)ヘーゲルは、オペラの社会的機能を「特定の内容から解放されて異国の文化の理解へと人々の関心を開く、芸術の機能」と考えた。岩城見一はヘーゲルの芸術理解の特徴を「人間を『世界市民』へと形成する機能を芸術に見る『コスモポリティズム』」であると述べている。つまり、芸術には人をコスモポリタンへと向かわせる機能があるとヘーゲルは考えていた。
 
 →ダントーは、ブリロボックスによって、他の異質な芸術を許容する時代、寛容な時代、芸術作品のコスモポリタンの時代になったと考えた。要は、ブリロボックス=オペラと考えたらいい。オペラが人を世界市民(異国の人を排斥しない、寛容な人)へと導いたのと同じように、ブリロボックスが他の芸術作品を「世界”作品”」にしたと考えてもいいのではないか?
 
ダールハウスさん(現代のドイツの音楽美学界における権威)が、ヘーゲルの生きた時代の音楽状況を分析するに、こうだ↓
彼の時代には、音楽界で、音楽の「自律」がなされた。特にそれは「器楽(楽器で演奏する音楽)」の中でも「交響曲」において「音楽は自律した」と考えられた。そして「交響曲の自律」は形而上学的な「意味」をもたらしたという。
当時の音楽に対する思想としてカントの「形式と質料」を二つに分ける考え方を受け継いだハンスリックはこう考えた→「概念」を示すことは音楽にはできないから、音楽は「怒り」とか「悲しみ」とかを表現することはできない。だから17、18世紀の人間の情念を模倣しようとするバロック音楽はだめ!音楽の本質(内容)は、感情とか音楽の外にあるものではなくて、その音自身にある。(GBの内省と同じやなぁ)それはこのことを考えれば腑に落ちる。日本語、英語、など様々な言語一般において、音はある対象を指し示すための手段でしかないし、言語を使う目的は発音することではない。それに対して音楽ってのは、音(素材とその組み合わせ)自体が芸術。だから音楽においては「「音響」は「自己目的」として登場する」と言える。
 
→つまり、19世紀の音楽においては、内容と形式が分かれている。
この分化に、ヘーゲルは芸術の終焉をみた。(ダールハウスさんからしたら、当時の流行の形式主義を理解できないヘーゲルさんは古い人に見えた。だって、ヘーゲルさんが、オペラを「劇的な筋、内容(=ドラマ性)」をオペラの本質と考えていた、とダールハウスさんは思っていたからだ。岩城(著者)さんは、この見方は19世紀の音楽史観に囚われていると批判している)
 
 
 
ドイツ・オペラ イタリア・オペラ
特殊な内容にこだわる 一般的なものにとどまる
演劇的朗吟(内容) はるかに自由、音楽それ自体で動くに任せる
ドイツ語は固い→オペラに不向き
 
ヘーゲルが言いたいことの本質はどっちがいいとか悪いとかいう表面的なことじゃない。ヘーゲルが言いたいのは「オペラにおける『テクスト』からの『歌手の自立』であり、テクストの意味ぶかさよりも、それを解釈(上演)する歌手、とりわけイタリア人歌手の『巧みさ』である。」
つまり、
ヘーゲルが見ているのは芸術の同一的な『機能』ではなく、市民社会の中で育ってきた芸術の、過去の倫理的な拘束を破壊する新しい<力>なのである。」
言い換えたら、イタリアのオペラってのは、テクスト=内容っていう伝統的なもの、それまで本質的なものとされてきたものを離れて、自由に音楽に合わせて歌手が表現する。このことはまさに、伝統をぶっ壊す市民社会の力を反映したものや!「社会の構造の変化が、イタリアのオペラには現れとる」これをヘーゲルは洞察した。
 
さっきあげられた、精神現象学に入れられている『ラモーの甥』(アンシャンレジームを批判するディドロによる小説)には、実はフランスの宮廷音楽が、イタリアのこうした(前衛的なと言っていいのか?)伝統をぶっ壊すようなオペラによって影響されて、フランスの従来の伝統的な宮廷音楽が変容していく様子が描かれれいる。
 
=一般化すれば、社会構造の変化=<新しい力の出現>と芸術状況は関係している。だから→「ポストヒストリカルな時代における芸術の多元主義をこれからきたる政治状況の予言として捉えている。ダントーの主張と結びつけられるのでは?」
 
●この章で気付いた
ヘーゲルダントーとりあえずの整理…
 
 
ヘーゲル ダントー
社会構造
階級社会→市民社会(=偽市民社会
(非平等→偽平等)
(偽平等→真平等)
(*偽の市民社会:実は全然平等じゃなかった、例えば黒人差別、女性差別など)
時代 前近代→近代 モダン→ポスト・モダン
芸術状況 フランスの宮廷音楽・ドイツのオペラ(伝統、権威的・内容重視・固定的)→イタリアのオペラ(前衛・内容からの自立、自由な表現=歌手の才能→作家の「天才」性、ロマン的?) 平面化、(その頂点としての)抽象表現主義グリーンバーグのナラティブ→モダニズム理論→美的価値=メディウムスペシフィティ、スタイル的命法、権威性)→ポップ・アート(スタイル的命法からの自立、自由な表現が許容され、支配的なスタイルが生まれない、美的エントロピーの極大、ウォーホル「何もかもが素敵」ボイス「誰もが芸術家」